インタビュー

2011年3月18日

【後編】目標へ向かって全力で走ってきたサッカー人生‐松原良香

世界中の様々なスター達はどんな幼少期、少年時代を過ごしたのでしょう。彼らの知られざる一面や苦労、努力の一端に触れるこの連載。今回は、ウルグアイやクロアチアなど海外チームでの豊富な選手経験を持つ松原良香さんです。

 ウルグアイで1年を過ごした後、1994年にジュビロ磐田に加入することになった松原さん。南米でスキルアップをし、自信満々での凱旋でしたが、今度はチーム内の競争が待っていました。

「帰国後、とにかく考えていたことはライバルたちに負けないために早くデビューをして代表に入ることでした。でも、当時は不動のエースとして中山(雅史/コンサドーレ札幌)さんやスキラッチ(元イタリア代表)がいて、なかなかチャンスをもらえない状態でした。帰国当初は『レギュラー獲得はすぐだ!!』というくらいの考えでしたが、上には上がいて、あっという間に鼻をへし折られました(笑)。でも、今考えると、若い時にそういったことを経験していて本当に良かったと思います。社会人経験もなかったので、ジュビロで、社会の規律を学んだというのもありますし、いい先輩たちに恵まれたというのもありますね」

ジュビロでは残念ながらレギュラー獲得まではいきませんでしたが、U-23日本代表には常に招集され、見事に五輪予選の突破に貢献します。そして96年、ついにアトランタ五輪を迎え、ブラジル代表を破る"マイアミの奇跡"を起こしました。

「対世界と考えた時、自分の中では五輪代表がすべてでした。だから自然と本大会へ出場できればOKだとリミットを決めていたんですよね。でも、実際はそれから先の人生の方が長い。今、指導者として気を付けていることは、そういった目標はあくまでも通過点だと選手に伝えることです。W杯も五輪も通過点。そこに気付けなかったことが、私が選手として大成できなかった原因の一つだと思いますし、W杯へ出られなかった要因のような気がします」

目標として掲げていたアトランタ五輪が終わり、松原さんはサッカー選手としてプレーをする場所を、再び世界に求めました。

「どこの国でも『サッカー選手はできる』というのをウルグアイで学んだんです。サッカーは世界で親しまれているスポーツで、いいプレーをすればキャリアアップできる。実際、私は五輪で活躍してヨーロッパへ行きたいと真剣に思っていました。だけどいいプレーができなかった。それでも、諦めず98年にクロアチアへ渡ったんです」

その後、スイスやウルグアイでの選手生活を経て帰国。日本でもJリーグ、地域リーグなどに活躍の場を移しながら、05年まで現役を続けた松原さん。現在は指導者として、"世界と戦う"というキーワードを胸に、海外へ羽ばたく選手の育成を考えているようです。
 常に目標を持ち、そこへ向けて全力で走ってきた松原さんが手塩にかけて育てた選手たち。彼らが、"世界の舞台"で活躍する日もきっと、そう遠くない未来に待っています。

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